それはいらない 5
「ちょっと待ってて、持ってくるから」
男はおもむろに立ち上がり、Barを後にした。
私と男が出会ったのは、今日が初めてである。
男は1ヶ月前からラーメン屋を開業してはいるが、思うようにいっていないという愚痴から私たちの出会いは始まった。
客が来ないわけでもない。味も不味いわけでもない。それでもうまく言っていない。
場所を聞いても、そこなら客の往来は少なくないし、値段を聞いても特別高いというわけでもない。安いというわけでもないが。
いわゆるリピートの客が来ないというのだ。
私はコンサルタントでもないし、商才があるわけでもないが、味わってみないとわからない、という言葉に対しての冒頭の台詞である。
「マスターは食べたことあるの?」
店はここのBarから歩いてこれる距離である。
「いや、先週にお越しになられたばかりで……ラーメン屋をやっているということも今日初めて聞きました」
そんな男が初対面の私にいきなり相談を持ちかけるなんて、よほど鬱積していたのであろう。
「お待ちどうさま」
15分程して、男はBarに戻ってきた。男は大事そうに丼を持ち、私の前にそのラーメンを置いた。
私の体を覆うように立ちのぼる湯気と香りが支配する。香りは申し分ない。
「少し冷めてるかもしれないけど、全部でなくていいから。食べてみてよ」
男はそう言い、空きかけのグラスにブランデーを注ぐようマスターに促す。
「じゃあ、いただきます」遠慮なく麺をすすった。いつも食べるラーメンより少し細めなのだろうか。どんなものを使って出汁を取っているとかは私には分からない。インスタントラーメンが規準の私が言えるのは、これが醤油なのか味噌なのか、塩なのかくらいの区別はつく。醤油だ。豚骨醤油というやつか。くどくもなく、スープの濃い色よりかはあっさりいただける。うん、うまい!この近くにこんな美味しいラーメン屋に行ったことなかったのが、恥ずかしく思えるくらいだ。
「おいしいですよ。僕ならまた行きたくなりますけどね。なんでなんだろうな。」
決しておだてる気もなく、思ったそのまま答えたのだが、男は嬉しそうな表情の後、怪訝な表情を見せ、
「何がダメなんですかね……何かお兄さんの意見を聞いて余計分からなくなりそう」
そう言い、俯いてしまった。
「マスターも食べてみてよ。おいしいよ」そう促すのが今の自分には精一杯だった。
「うん、あっ、美味しいですよ。本当、これでリピートがないっていうのが分からないですね。そうなると……」
「お店の外観とか、内装とか、そういうのなんだろうか?」私は独り言のようにつぶやき、男の方を向いた。
「今度店に食べに伺いますよ。お世辞じゃなくて、本当に美味しいし」
「ありがとう。是非、お待ちしています」
2、3日経ったのだろうか、同僚と食事の話になった時、ふとあのラーメン屋の話を思い出した。せっかくだし行ってみるかと思い立つまでそう時間がかからなかった。
私は同僚を引き連れ、ラーメン屋を訪ねた。店に入ると男はすぐ私に気付いてくれ、とても喜んでいる様子だった。
外観も店内も新しいからなのかとても清潔にされ、非の打ちようがない。同僚も、
「なんでなんだろうね?」と首をかしげながら席に着く。ただ、私と同僚、そしてこの店の主である男以外、客はいない。まだ夕食の時間だというのに。
男は所謂、10数年前のラーメンブームをテレビで観て、「こんな格好良い職業はない」と思い立ったらしい。私には到底わからない感覚なのかなと思いながら、話を聞いていたのだが、そこから、有名店に弟子入りし、店の経営のノウハウを得た後、ようやく今の店を開くことができたのである。話からは読めない苦労がにじみ出ている。
私と同僚はビールをあおりながら男の作るラーメンを待つ。
男が特に憧れたのが「麺の湯切り」だという。湯の張った鍋から麺を入れたザルを天高く腕を上げ、一気に地面に振り下ろす。そう言ったパフォーマンスが見せられるのは、飲食ではラーメン屋だけだろうと男は自負する。ただ、そのまま模倣しただけでは面白くないので自己流の「湯切り」を編み出したのだと言う。男は本当に嬉しそうにその話をするのだ。
麺がゆで上がったようで、男は真骨頂とばかりに私たちに一瞥し、目を瞑り、おもむろにザルを手にかける。あまりにも力強いその動きから湯の張った鍋は大津波を起こし、私たちは息をのむ。男は時を見計らったのか、そのザルを一瞬止めたかと思うそのスキに、遠心力よろしく横に振ったのだ。男はじっと目を瞑ったまま。ザルのすき間から豪快に出るしぶきは、私たちの体という体に余すところなくかかるのだ。